>Requiem

その49・・・『忘れたい』・・・・

サイト管理をしていると、いろんな方からメールをいただきます。
そしてレクイエムについてメールをくださる方もたくさんいらっしゃいます。
今回、高校生のSさんがご自分の体験をメールしてくださったのですが
とても考えさせられたので、ご紹介したいと思います。
(ご本人に許可はとっています)

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震災が起こった年、当時私は6歳でした。家がすごく古かったため
2階が1階になっている状態になってしまい、私の大好きな祖父が
生き埋め状態になったんです。祖母が言うには動かない方がよかったのに
懐中電灯を探しに行ってしまい下敷になってしまったそうです。
父や近辺に住んでいる若い男の人やおじさんが一緒に祖父の
『助けて・・・』という声を頼りにライターで小さい灯りをともしつつ探していました。
何時間後かに畳にのせられパジャマには血がたくさんついて
ぐったりしている祖父が寝ていたんです・・。私は6歳にもかかわらず
その場面を見て『おじいちゃん・・死んだん?』と理解していました。
祖父に泣きじゃくりながら近づいていく祖母と母・・それを見て初めて身近な・・
家族で一番大好きだとはっきり言える優しい・・・神様みたいな祖父を亡くし、
亡くなった人に対して初めて流した涙でした・・。6歳の出来事なのに、
この場面だけは頭にしっかりと鮮明に残っているんです。
それだけインパクトが大きかったんだと思います。

それからの生活は本当に大変で、幸いにも被害をうけていない親戚の家に
少しの間家に一緒に住ませてもらっていました。小学校1年生に近づくにつれ
小さいマンションに引越し行く予定もなかった違う小学校に入学。
だけど、1学期間しかその学校にいれなくてすぐに近くの小学校に転入。
そしてその学校にも1年生の2学期〜2年生の2学期までと1年しか
いれなかったんです。折角仲良くなった友達と2回も別れ小2にもかかわらず
精神的に不安定な気持ちが現れ、人見知りになったり母の話によると
チック症というものにもかかっていたそうです。しかし、2年ぶりに震災で
家が崩れた場所にたどり着き、最初行く予定だった小学校に来ました。
その小学校には保育所が同じだった友達がたくさんいたのでだんだん
人見知りやチック症というものが無くなっていったそうです。

だけど、震災で大好きな祖父を亡くし、どこかに心を閉ざしていた部分がありました。
毎年1月17日に近づくにつれてニュースや新聞には『阪神淡路大震災から
まもなく○年』など書いてあるのを見たり聞いたり・・中学校2年生までは
本当に嫌で嫌であの時の事(特に祖父がぐったりとした状態で運ばれた事)を
思い出してしまい自分の部屋に閉じこもってJ−FRIENDSの曲を聴いて
ポロポロと涙を流しながら心を落ち着かせたりとして震災の事なんか忘れたいと
ずっと思ってました。

私が通っていた中学校では毎年震災の日の前日に『復興祈願行事』という
行事があるんです。冬休みに『震災について』という作文を書かなければいけなくて、
全校生のその作文を復興担当の先生(震災などで傷ついた生徒の心をケアする
先生の事です)が読んでいき、復興祈願行事で全校生の前で読んでもらう生徒を
学年で1人ずつ選んでいくんです。私は中1の時その作文を書かなければいけない事を
聞いて本当に嫌だったけれど宿題だからと嫌々書いていました。その時の内容は
本当に悲しい内容ばかりで地域方々と協力してきたことや警察の方々、
自衛隊の方々にお世話になったことなどには全く触れずにただただ祖父の事や
生活が大変だったことばかり書いていました。その作文を見て当時担任だった先生が
私を採用しようとしたのですが、復興担当の先生が『今のSさんには読ませない方が良い。』
と言ったそうです。2年生の時もやっぱり嫌々書いていました。だけど、その年の
復興祈願行事では私の思いがだんだん違う方向へ行こうとしていたんです。

私は将来婦人警官になりたいと(今も思っていますが・・)夢みていて
そのためには武道をやっていた方がいいなと思い柔道部に入部していたのですが、
柔道部の男子の後輩が震災で私と同じ思いをしていたことが復興祈願行事をとおして
初めて分かったんです。後輩はお兄さんを亡くしてしまったそうなんです。
私は、全校生徒の前で作文を読んでいる後輩を見てすごく疑問に思っていました。
『なんでみんなの前で堂々と作文読んでるん?』『なんでそんな堂々とはっきりした声で
喋れるん?読めるん?』『なんで同じ思いをしている後輩に読めて・・・
同じ思いをしている先輩のうちが読めへんねん・・』

そして、復興担当の先生から『来年はSさんに読んでほしい。今目の前にある壁を
越えてみんなの前で読んで欲しい』という言葉をもらいました。
ここからなんです。私が変わろうと思ったのは・・・。

そして3年生。自分でもびっくりするぐらい作文の内容が変わっていたんです。
復興担当の先生も私が変わってくれたという事に対して本当に喜んでくれました。
作文の内容は1年生2年生に書いていた『震災を忘れたい・・』という
言葉とは逆の言葉『震災を忘れたくない・・』という言葉に変わりました。
震災を忘れる=地域の方々やボランティアの方々の優しさや、警察の方々、
自衛隊の方々の優しさを忘れる。そして、6年間という短い間世界中の誰よりも、
私の両親以上にも優しく可愛がってくれた祖父の事も忘れる事になるんじゃないかとも
思ったんです。阪神淡路大震災についての記事や放送は本当に嬉しかったです。
被害にあっていない日本全国のみなさんや、関西に住んでいるけど
被害に全くあわなかったみなさんは、兵庫県に大震災が何日にあったか
全然知らない・大震災が起こっていたことを忘れているそうなんです。
私はそれを聞いてすごく悲しかったです。だから、記事を載せていた新聞を
たまたま読んだ・ニュースをたまたま見ていたみなさんが、1人でも多く
『兵庫県に大震災がきたのは17日なんだ』と覚えてくれれば私はすごく嬉しいです。
私がこんな想いを抱くようになった事や気持ちが切り換わった事は本当に
復興担当の先生が頑張ってほしい。といつも応援してくれていたことや、
後輩が堂々と読んでくれて、自分も読まな!!って思わせてくれたおかげだと思っています。
本当に心から感謝しているんです。そして、これからも震災の事は忘れず、
将来子供が出来たら『お母さんが小さい時こんな事があったんやでぇ〜』って教えてあげようと思います。

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Sさんが周りの人の応援で、気持ちが変わったのは
ホントに良かったと思います。
その反面、まだまだそうは思えない子供達もいるんだろうなと
改めて考えさせられました。(もちろん大人も)

震災を忘れてはいけないと叫ぶのは簡単です
が、忘れたいと思っている人の心に悲しみを蘇らせる事にもなるんですね



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